さとう よしのり佐藤 義則
- 肩書き
- 元プロ野球投手・元投手コーチ
- 出身・ゆかりの地
- 北海道
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阪急・オリックス現役時代は奪三振王、史上最年長(当時)ノーヒットノーランを達成。引退後は投手コーチとして、2003年阪神18年ぶりのリーグ優勝に貢献、その後もダルビッシュ有や田中将大を育てた佐藤義則氏。講演では、その人材育成論をお届けします。
プロフィール
1954年9月、北海道生まれ。函館有斗高校から日本大学へ進み、1976年秋には78奪三振の東都大学リーグ新記録を樹立。1977年、ドラフト1位で阪急へ入団。ルーキーイヤーから阪急のリーグ優勝、日本一に大きく貢献し新人王に輝く。
1978年、二年目にして13勝8敗1Sの好成績。チームもリーグ連覇を果たす。しかし、1980年は不本意な成績に終わり、翌1981年に椎甲板ヘルニアで投手生命の危機に立たされる。選手登録を抹消されて1軍登板も無く、任意引退選手となる。だが、翌1982年には練習生から復活し、主にリリーフで4勝2敗13セーブを残し復活を遂げる。1984年、先発に復帰して17勝6敗1S136奪三振。奪三振王に輝き、チームは6年ぶりにリーグ優勝。1985年には21勝11敗の成績で最多勝に輝き、188奪三振は2年連続の奪三振王でもあった。以後、パシフィック・リーグでの20勝投手は2003年のソフトバンク斉藤和巳まで現れなかった。
1986年は14勝6敗1S、防御率2.83で最優秀防御率のタイトルを獲得した。1987年当時のエース山田久志に代わりプロ11年目にして開幕投手を務める。1994年4月には通算150勝を達成する。1995年8月の近鉄戦では40歳11ヶ月という(当時)史上最年長でのノーヒットノーランを達成。
同年、オリックスブルーウェーブに改称後、初のリーグ制覇。1998年、通算500試合登板を果たすも、現役を引退。
長身から投げる落差の大きな独特の変化球は魔球「ヨシボール」と呼ばれ、44歳までの22年間の現役生活を支えた。指が短くフォークボールが投げられない為、代わりとなる決め球が必要だった。フォークボールのように人差し指と中指で挟むことができないなら、親指と人差し指で挟み、フォークボールと全く同じように投げればいいという考えから、ヨシボールが完成した。
引退後は翌1999年より2001年まで古巣オリックス、2002年~2004年阪神タイガースの投手コーチを歴任する。2003年には阪神の18年ぶりのリーグ優勝に大きく貢献。2005年からは地元・北海道日本ハムファイターズの投手コーチに就任する。防御率リーグ5位であった投手陣を鍛え上げ、2006年に北海道移転後リーグ初優勝。2007年には球団初となるリーグ連覇。ダルビッシュら若手の育成に力を注ぎ、リーグ屈指の投手王国を築いた。
2009年野村克也監督に「日本一の投手コーチ」と称され、楽天に入団。田中、永井らを育成し、球団史上初のクライマックスシリーズ進出を果たす。2014年、楽天を退団。
2015年、ソフトバンクに入団。2回のリーグ優勝と日本一に貢献。2017年に退団。
2018年より、楽天の投手コーチを務める。2019年に退団。
主な講演のテーマ
「名投手育成職人、優勝請負人が語る人材育成と長所の伸ばし方」
「ダルビッシュ、田中将大を育てた人材育成論」
「一流人材の育て方~伸びる人材、伸びない人材の違いと伸ばし方~」
現役時代は、阪急・オリックスの全盛期をエースとして支えた。1995年の阪神大震災の年には「がんばろう神戸」をスローガンにチームが優勝する中、自身が40 歳の時に最年長ノーヒットノーラン(当時)を達成する等、感動を与えた。
引退後は指導者として、野球をやっていない人でも分かるくらい理論・セオリーをかみ砕き、分かりやすく言語化するコーチングは、各球団からコーチとして引っ張りだことなり、数球団を渡り歩いた。あの、故・野村克也監督は「日本一の投手コーチ」と称賛した。
日本ハムではダルビッシュ有投手の才能を引き出し、楽天では田中将大投手を「超一流」に育て、ソフトバンクでは 12 球団一の投手陣を作り上げた。それのみならず、目立たない投手・埋もれていた投手を発掘し、育て上げ数多くの選手の良いところを引き出し、才能を開花させた。若手からベテランまで「ヨシさん」と親しみを込めて呼ぶ、その人心把握術、長所の見つけ方、伸ばし方を語ります。